My Sociology 

飯山一郎先生とその支持者の方々へ


今回の無断転載の件について所感を述べさせて頂きたいと思います。

ご承知のとおり拙ブログの会員制化は、一昨年に不特定多数を対象とする政治系ブログの刑事罰化が国会答弁されたことを受け、言論活動を継続するための苦肉の対処であり、それについては全く恥じることがないと考える次第です。

逆説的にこの媒体は非公共化によってのみ存続可能であり、無断転載により公共化されるならば存続不能となり、ひいては自身の言論活動そのものが終焉するわけです。またご存知のように僕は各方面からスラップ訴訟の圧を受け、今時点においても決して安全圏から言論を発しているのではありません。むしろ新法の自由解釈性においては今後拘束される蓋然性が高く、すなわち一つの覚悟をもって言論に臨んでいると言えるでしょう。

繰り返しますが頭ごなしに引用や転載を禁止しているのではなく、「事前に相談があれば常識の範囲内での転載に応じる」とまで告知しているのであり、今回の件はそのような譲歩を全く踏みにじる行為であったわけです。そのうえ会員には障害を持つ子供さんを抱え一人で育てられている女性、重度の疾患を抱え入退院を繰り返している高齢者など、経済的に苦しいなか購読料を捻出して下さっている方々がおられ、無断転載とはそのような人々の厚意に唾棄する行為でもあるわけです。

ちなみに僕はたった一つの記事を綴るため幾冊もの書籍を購入し、資料を渉猟し、7時間、8時間以上の時間を投じ、そうやって仕上げた原稿を数週間寝かせ、さらに推敲を繰り返すという作業を継続しております。なぜなら<等価性のあるコンテンツ>とはそれだけの質が問われるのであり、それがプロ意識であり、「何が事実であるのか」という検証作業は、それだけの厳しさが要求されるからです。ゆえに、そのような労作を無断転載することには今後も応じることができません。それはまさに自身の全存在であるからです。

なお僕は自説がすべて「作業仮説」であると捉えております。それはつまり仮に主張が間違いだとしても、それを検証することによりさらに精度の高い仮説が導出できる仮説に他なりません。そして自説を覆す新たな観察事実が認められた際には潔く撤回するという「反証可能性」を掲げるのであり、それがすなわち「境界設定問題(科学と疑似科学との線引き)」という言論のスタンスなのです。だからこそ僕は異論や反論に対し閉じるのではなく、常に開いていたいと思うのです。

僕は飯山先生によって言論人として世に送り出して頂いた者であり、今なおそのような自覚に変わりはありません。だからこそ8冊の自著すべてに飯山先生の御名前を刻み謝意を述べているのであり、それが偽らざる真意なのです。

今週から配信予定である新著の”あとがき”を下記に掲載致しますが、これは読者よりむしろ自身に向けたメッセージであり、つまるところ自戒の覚書に他なりません。

最後までありがとうございました。

(本エントリーは一般公開記事につき転載自由です。)

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「終末社会学用語辞典」 あとがき より

僕はこれまで執筆のため膨大な書籍と資料を渉猟し、それを取りまとめファイル化してきたのだが(記憶力が悪いことから苦肉の策であるのだが)、本書はその集約でありネタ帳と言えるだろう。

このようなモノを公開することは手の内を明かすことに等しく、むしろ後生大事に抱え込み、小出しにして記事に盛り込むほうが経済合理に適っているのだが、僕はあえて吐き出すことを選択したのだ。つまりそれにより新たな知識の修得を否応なく迫られるのであり、そのような状況下で自身の知的枠組を引き上げたいと考えたのである。

おおよそヒトは知識行動においても安住を求める生き物であり、少しばかり油断すると何もかも知っているかのように錯覚し、一旦それに固着してしまえばたちまち劣化してしまうのだ。知識の自負は清流を遮るダムや堰にも等しく、新たな分子や新鮮な酸素の供給を絶たれた水が汚濁するように、変化を拒絶する精神もまた容易く腐敗するのである。

だからこそ我々は退嬰してはならないのであり、決して「閉じてはならない」のであり、常に「開いていなければならない」のであり、細胞の若さと同じく精神の若さもまた代謝によって担保されるのである。

あらためて知性とは知識の多寡ではなく精神の柔らかさであり、他者の痛みを自身のそれとして慮る心性であり、新たな何かを獲得し変化する可塑性であり、あらゆる二極を統合して思考する理性であり、知識世界と自身の内実を相対化する謙虚さであり、旧い自身を潔く処分し未知を受け入れる覚悟であり、すなわち自説すら疑うという度量に他ならない。

かくして僕は本書の刊行により自身の初期化を果たしたのであり、そしてこれからも住することなく不断の自己破壊に賭けたいのだ。

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